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代(だい、:)は、中国の五胡十六国時代に建てられた鮮卑拓跋部の国。315年から376年まで8主を有し、およそ61年続いた。 == 歴史 == === 代の建国 === 拓跋禄官の跡を継いだ拓跋猗盧は、3分割された拓跋部を再び統一。310年、并州刺史のは拓跋部に遣使を送り、子の劉遵を人質とさせた。猗盧はその意を喜び、厚く褒美を贈る。白部大人は叛いて西河に入り、これに応じて鉄弗部の劉虎は雁門で挙兵、劉のいる新興、雁門の2郡を攻める。劉は援軍を要請し、猗盧は甥の拓跋鬱律の将騎2万を使い、劉を助けこれを撃ち白部を大破する。次に劉虎を攻め、その陣営を落とす。劉虎は西走し、朔方に逃れた。この功により、晋の懐帝は猗盧を大単于に進め、代公に封じた。劉はまた遣使を送り洛陽を救う援軍を求め、猗盧は歩騎2万を遣わしこれを助ける。この年、漢の劉淵が死んで、子の劉聰が立つ。311年、劉の牙門将の延は新興で叛き、劉聰を招き寄せる。猗盧は軍を遣わしてこれを討ち、劉聰を退走させる。312年、劉は遣使を送り劉聰、石勒を討伐する援軍を要請。猗盧は劉に忠義をもってこれに応じた。その間に、劉聰は子の劉粲を遣わして晋陽を襲い、劉の父母を殺しその城を占拠した。劉がこのことを報告すると、猗盧は大いに怒り、長子の六脩、桓帝(猗)の子の普根及び衛雄、范班、姫澹等を前鋒として遣わし、猗盧は躬大衆20万を統べ後継となる。劉粲は懼れて輜重を焼き、攻囲を突破して遁走。縱騎はこれを追い、その将の劉儒、劉豊、簡令、張平、を斬り、伏屍は数百里にもわたった。劉は拜謝に来て、猗盧は礼をもってこれをもてなした。この年、晋の雍州刺史の賈疋、京兆太守の閻鼎らは、懐帝が劉聰に囚われたので、懐帝の兄の子の秦王(愍帝)を共立し太子とした。猗盧はふたたび戒厳、劉と与し更に大挙し勝つ。313年、盛楽城を北都とし、平城を南都とした。新たに小平城を築城し、長子の拓跋六脩に鎮守させ、南部を統領させた。315年、晋の愍帝は猗盧を進めて代王とし、代、常山の2郡に官属を置いた。ここに代国は百官を置き、刑法を定めるなど国家としての体制を整える。316年、猗盧は六修を召すが、六修が来ないので。猗盧は怒り、これを討つが、逆に敗れてしまう。猗盧は民間にまぎれて逃亡するが、遂に捕まって殺されてしまう。そのころ普根は外境を守っていたが、このことを聞いて駆けつけ、六修を攻め滅す。猗盧の配下だった衛雄、姫澹は晋人及び烏丸人300餘家を率い、劉の子の劉遵につき従い并州に南奔した。普根は即位するが数カ月で卒去。普根の子(哀帝)が生れたので、桓帝の后(祁氏)はこれを立てる。その冬、普根の子も卒去し、立て続けに代王が卒去した。 穆帝、平文帝、哀帝が相次いで亡くなると、思帝の子の鬱律が即位した。318年、匈奴鉄弗部の劉虎は朔方に拠り、代国西部に侵攻してきた。拓跋鬱律はこれを大破し、劉虎を敗走させる。劉虎の従弟の劉路孤は部落を率いて帰順してきたので、鬱律は娘をやった。このころの代国は、西は烏孫の故地を兼ね、東は勿吉以西を併呑し、騎射ができる将は百万にのぼったという。この年、漢の劉聰が死んで、子の劉粲が立つが、在位1か月でその外戚の靳准に殺されたので、劉淵の族子の劉曜が立った。劉曜は遣使を送り代国に和親をはかったが、鬱律は晋の帝が劉曜に殺されたと聞いていたので、受け入れなかった。319年、石勒は自ら趙王と称し、代国と和親をはかり、兄弟となることを請うた。しかし、鬱律は遣使を斬り捨て断絶する。321年、東晋の元帝が遣使を送り爵位を与えるが、鬱律はこれを断った。桓帝の后(祁氏)は、鬱律が衆の心を得ているのに対し、自分の子に利がないのを恐れて、鬱律と諸大人を殺し、死者は数10人に及んだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「代 (五胡十六国)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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